Archives[ 2018年03月 ] - かとうまさゆき Kato Masayuki Photo Channel
FC2ブログ

スポンサーサイト

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

三陸自動車道 気仙沼中央インターで開通式典

2018年03月25日 23:25

2018325_1_気仙沼中央IC開通式

 <開通に先立ち気仙沼中央ICで開通式典が行われました>

 宮城県大谷海岸ICと気仙沼市中央ICの7.1キロが3月25日に気仙沼市中央ICで開通式典が行われました。式典には長年この事業を要望を続けてきた衆議院議員・県知事・市長など近隣市町村の関係者約400人が参加し、盛大な開通式典が行われました。今回の三陸自動車道は気仙沼市では初めての開通とあって関係者の他にも地元の方が沢山集まり、開通を喜び合っていました。今回の開通区間の事業費用は約255億円で、仙台までの約12分ほど走行時間の短縮が見込まれています。仙台から青森県八戸までの災害時の交通網の確保や物流の要となり、観光客の集客も見込まれます。午後3時30分からは一般車両の通行が始まり、45号線の朝晩の渋滞の緩和が見込まれています。この先仙台ー気仙沼間の全線開通は2020年度に開通予定です。

2018325_2_気仙沼中央IC開通式
 <式典を祝うために糅てつけた菅原気仙沼市長>

2018325_5_気仙沼中央IC開通式
 <小野寺防衛大臣>

2018325_4_気仙沼中央IC開通式
 <村井県知事>

2018325_9_気仙沼中央IC開通式a

 <関係者による記念走行 >
関連記事
スポンサーサイト

「みちのくGOLDろまんツーリズム」モニターツアーに参加

2018年03月20日 22:39

20180320_2_砂金採取
 <砂金の採取をする参加者たち>

 3月20日 宮城県涌谷町で砂金取りのモニターツアーが行われました。主催は宮城県涌谷町で、共催は宮城県気仙沼市・南三陸町、岩手県陸前高田市・平泉町とともに1250余年にわたり気仙地方から産出され黄金文化の象徴である黄金の国ジパングの歴史とこの地方から採取した金を「金メダル」の一部としてつかってもらうためのモニターツアーでした。参加者は行政職員の他に観光業者や金に関わる一般の方が参加していました。当日は東北博物館の千葉正利氏より砂金に関する知識や歴史の話から始まり、砂金取りの練習が行われました。その後参加者たちは涌谷町の川に入り砂金取りを実施しました。天平ろまん館での砂金採取の練習では皆さん上手に砂金を採取していたのですが、午後からは近くの川に入り砂金採取をしました。自然界の川での砂金採取はみなさん思うようにいかず、砂金の採取は難しかったようです。愛知県から参加したマニアの方がとても上手で、その方が砂金の溜まる場所などの指導をすると、砂金の採取が一気に増えました。しかし、自然界で砂金の採取は厳しいものでしたが、参加者の皆さんは東京オリンピックのメダルの一部になるだろうと言う思いから頑張っていました。採取した砂金は天平ろまん館に展示し、これからも参加者の集めた砂金を展示し、沢山集めて東京2020 オリンピックの金メダルの一部になるとうれしいですね。
 今年の4月頃には関連自治体で提出した産金地にまつわる「みちのくGOLDろまんツーリズム」の日本遺産の審査会が文化庁で行われます。認定されると参加自治体でいろいろな催しが開催されるとの事なので、産金地に関わる日本遺産の認定が楽しみです。
 天平ろまん館URL : http://www.tenpyou.jp/
 
20180320_1_砂金採取
 <天平ろまん館での砂金取りの練習>

20180320_3_砂金採取
 <自然の川に入り砂金採取 赤枠のキラリと光る小さな三つが砂金です>

20180320_4_砂金採取
 <モニターツアーに参加した方々で、手に小さな瓶をかざしている方が砂金を採取した方たちです>

夜空に放たれた三本の光の柱

2018年03月11日 23:52

20180311_1830_光の柱JPG
<宮城県気仙湾の夜空に放たれた三本の光の柱 安波山より>

 東日本大震災発生から7年目を迎えた11日の夜気仙沼湾の鼎が浦(かなえがうら)を象徴する柏崎・神明崎・蜂ヶ崎の三カ所から三本の光の柱が夜空に向かって放たれました。「鎮魂」「希望」「感謝」の息を込めた光は気仙沼湾の夜空に浮かび上がりました18時30分頃に坂本九の代表曲である「見上げてご覧夜の星を」のメロディーが防災無線から流れると。犠牲者の追悼などを願う三本の光の柱を見上げた人たちはそれぞれの想いが届くように夜空を見上げていました。

関連記事

東日本大震災から7年を迎えた気仙沼の町の移り変わり PART3

2018年03月11日 23:11

011_20180311_14_気仙沼市安波山山頂_気仙沼湾を望む

011a_20180311_12_気仙沼市安波山山頂_気仙沼湾を望む
 <安波山山頂より気仙沼湾を望む>

 東日本大震災から7年の月日が流れた気仙沼の震災時と震災時から7年で町がどのように変貌してゆくかを比較しながら、紹介していきます。今回は三回目となります。

 震災後一ヶ月ほどして安波山に登り山頂から町の様子を見た瞬間、本当に復興できるのかと思うほど悲惨な状況でした。上記の写真は山頂から港町方向を見たもので、気仙沼プラザホテル下のお魚いちばの左側に女川町のマグロ延縄漁船 第三明神丸が陸に打つ上げられています。港の中で漂流していた焼け焦げた漁船は港に係留され、津波の難を逃れた小型の漁船が係留されています。商港岸壁には海上自衛隊の船が捜索活動のために停泊しています。一ヶ月をすると道路の瓦礫は撤去され、港町付近は車の往来が出来るようになっていました。港に入港中の船は大島との連絡船として使われている「ひまわり号」です。五十鈴神社下側のお神明さんの赤い東屋も津波で流され、気仙沼女子高のかまぼこ形の体育館も見るkとが出来ました。しかし、現在は撤去され、災害公営住宅へと生まれ変わっています。一ヶ月あまりでは復興も進まず、沿岸部では津波の爪痕が色濃く残っていました。現在は港町は大型漁船が港に係留され往時の賑わいを取り戻しています。大きく変わったのは30年にわたり嘆願し続けてきた大島住民の祈願である大島架橋が取り付け工事も昨年3月に行われられてた事です。来年度の開通を目指して急ピッチで道路工事が行われています。

007_20110329_10_27mm_1_気仙沼氏魚町_第3明神丸

007a_20180311_09_気仙沼氏魚町_第3明神丸
 <上側は港町に打ち上げられた女川町の第三明神丸で、下側はコの字突堤で塗装作業のために入港した第三明神丸>

 その女川町の第三明神丸も港町に打ち上げられていたのですが、大型のサルベージ船で船体のつり上げ作業で海に戻され、破損した左側の船尾も改修され、現在もマグロ漁を行っています。震災7年を迎えた今日、コの字突堤に帰港していました。下から見上げるとものすごく大きな船だと感じたのですが、海に浮かんでいると見下ろして見ているのでこじんまりと見えてしまいました。

012_20110518_012_175mm_気仙沼市安波山山頂_鹿折カモメ通りを望む

012a_20180311_13_気仙沼市安波山山頂_鹿折カモメ通りを望む
 <安波山山頂より鹿折かもめ通りを望む>

 安波山山頂から見ると町が変わっていく状況がつぶさに観察できました。被害の大きかった鹿折地区ではまだ市内を走る国道45号線は気仙沼信用金庫前に4隻の漁船が立ちはだかり、周りの瓦礫の撤去も進まず迂回路として、コの字突堤の周りの道路を開通させていました。町全体が45cm程地盤沈下したせいもあり、至るところで浸水している箇所が有り、長靴がないと歩けない状況でした。現在は嵩上げ工事と共にかもめ通りは新道に変わり、かつての鹿折かもめ通りは一変してしまっています。しかし、水産加工工場が再開や新設され、気仙沼を支えてきた基幹産業である加工工場が鹿折地区に戻ってきているのはうれしい限りです。

関連記事

東日本大震災から7年を迎えた気仙沼の町の移り変わり PART2

2018年03月11日 23:08

005_20110331_01_24mm_気仙沼市松崎中瀨の高台より_

005a_20180311_01_気仙沼市松崎中瀨の高台より 
 <気仙沼市松崎中瀨の高台より大島を望む>

 東日本大震災から7年の月日が流れた気仙沼の震災時と震災時から7年で町がどのように変貌してゆくかを比較しながら、紹介していきます。今回は二回目となります。

上記の写真は気仙沼市気仙沼市松崎中瀨の高台より大島方向を見ています。古谷舘(こやだて)八幡神社の境内へと続くこの高台から松崎片浜地区が一望できますが、この地区の被害は大きく、鉄筋コンクリートの建物以外はすべて消失してしまいました。
津波は松崎五駄鱈(まつざきごたんだら)方面に流れ込み、引き波で旧家が写真右手方向まで流され程引波の恐ろしさが回目見れた地域です。写真左上には煙雲館がありここは難を逃れています。7年立って変わったのは大島架橋が架かっています。手前の仮設商店街は「まついわ福幸マート ココサカエル」で、バス停は気仙沼線のBRTの松岩駅です。気仙沼線は画面中央の横に伸びる道路がその跡です。嵩上げ工事が始まっていますが、待ちの再生はまだまだ先になります。

002_0020110401_28mm_気仙沼市魚町_ホテル望洋前

002a_0180311_03_気仙沼市魚町_ホテル望洋前
 <気仙沼市魚町のホテル望洋前からコの字突堤を望む>

 震災から水が引くと魚町から鹿折に抜ける45号線は漁船が数多く打ち上げられていて45号線の通行は困難を極めていました。気仙沼市内から鹿折地区を行き来できたのは大船渡線のトンネルで、このトンネルの中を通り往来が出来ていました。コの字突堤の道路は漁船に阻まれていましたが、道路が瓦礫の撤去は数日かかりましたが、なんとか道路開通にこぎつけたのは水が引けてから数日後のことでした。震災時の対岸の波板た大浦地区の造船所の船は陸にあがっている状態で、城剪除に入っているわけではありません。当時は湾内には瓦礫が氾濫し、漁船の入港は出来ませんでしたが、現在は大型のサンマ船などが入港できるようになっています。

006_20110518_04_85mm_コの字突堤より波板方面

006a_20180311_10_コの字突堤より波板方面
 <コの字突堤より波板・大浦方面を望む>

震災当日に造船所のドックに入っていた漁船や港に係留していた漁船はほとんどが津波によって流され、陸へ打ち上げられてしまい、船をドックに戻すにも数年かかる状態だったのですが、現在は造船所で船を製造できるまでに回復しています。この波板と大浦にある造船所は近い将来の造船所を一括で統合され、「未来造船」となって各社一丸となってあたらしい造船システムを作り上げていきます。その上の高台では山を切り開き、個別住宅地区が新設され、運用が始まっています」。

関連記事

東日本大震災から7年を迎えた気仙沼の町の移り変わり PART1

2018年03月11日 22:50

001_20110329_01_24mm_気仙沼市波板_吉田造船鉄工所前

001a_20180311_04_気仙沼市波板_吉田造船鉄工所前
<気仙沼市波板_吉田造船鉄工所前>

 東日本大震災から7年の月日が流れた気仙沼の震災時と震災時から7年で町がどのように変貌してゆくかを比較しながら、紹介していきます。今回は1回目となります。

 上記の写真は気仙沼市浪板にある吉田造船鉄鋼所の道路に救助を示す「SOS」と「50人」の文字がペンキで描かれています。道路のこの箇所だけが津波より高い位置だったために難を逃れたのですが、両サイドは冠水となり行く手を塞がれてしまい救助の手立てととして道路に文字を描いたのです。その後全員が救助されましたが、7年の月日で道路のペンキが風化し、震災時の面影が消されつつあります。

003_20110401_03_55mm_気仙沼市新浜町_旧気仙沼信用金庫付近

003a_20180311_02_気仙沼市新浜町_旧気仙沼信用金庫付近
 <気仙沼市新浜町_旧気仙沼信用金庫付近> 

 津波の影響で鹿折地区にも漁船が数多く打ち上げられました。その津波の高さは10m以上にもなって鹿折地区に押し寄せてきました。ホテル望洋から鹿折方面に下ってゆく途中には乗用車がこの高さに引っかかかっていました。また、漁船は市内を通過する45号線をよぎるように気仙沼信用金庫鹿折支店(船の左側に見える白い建物)の周りを囲むように4隻の大型の漁船が打ち上げられていました。現在は道路の嵩上げ工事が行われ、商店や加工場が少しずつ増え始めています。以前のかもめ通りは区画整理で道路の位置が変わってしまいました。
004_20110401_01_24mm_気仙沼市新浜町_鹿折駅唐桑駅付近

004a_20180311_08_気仙沼市新浜町_鹿折駅唐桑駅付近
 <気仙沼市新浜町_鹿折駅唐桑駅付近>

 鹿折唐桑駅前に打上げられた第十八共徳丸の周りには市内旭町にあった23基の石油タンクが被災し、約24000キロリットル物の石油類が流失し、鹿折地区に流れ込み辺り一帯は大火災となってしまいました、消化活動が沈下した後は町全体が焼け焦げた匂いが漂い、町全体はどこに何が立っていたかが分からず、見るも無惨な姿ととなっていました。炎の海から流れるすべはなく、一面は燃え尽きた瓦礫の山となっていました。現在はその現序は一変し、町全体が嵩上げされ大船渡線はBRTに変わり、鹿折唐桑絵に周辺は新しい町が出来上がり、当時の状況は一変してしまいました。災害公営住宅も昨年完成し、気仙沼の水産業を支える加工処理施設も完成し、以前のような水産加工場が稼働し始めています。新しい町の発展はこれからの水産加工業にかかっわってきます。
関連記事

東日本大震災から7年目を迎えた気仙沼

2018年03月11日 22:40

20170311_1446_魚町
 < 魚町の海岸で祈りを捧げる魚町自治会の皆さんと防潮堤の工事>

 3月11日、東日本大震災発生から7年目を迎え気仙沼では14時46分のサイレンと市内で一斉に黙祷が行われました。市内の魚町の海岸では魚町自治会の人たちが毎年海岸に集まり、祈りをささげてきました。魚町自治会会長 臼井壯太郎さんが祈りの後集まった皆さんに震災時の状況を話をしていたことがとても印象に残りました。大きな揺れと共に脳裏によぎったのが高台への避難という言葉でした。高台に避難したにもかかわらず、近くの産婦人科に取り残された親子を避難所まで従業員たちと一緒になってと避難させるなど、誰もが自分たちが必死で難を逃れるなか、我を顧みずに避難させることは誰もが出来るものではないのですが、当時は必死だったと振り返っていました。
 祈りを捧げた海岸でも防潮堤の工事が始まっています。海が見えなくなる状況は津波襲来時に課題を残し、市民の間でも不安が広がっています。気仙沼でも過去に大きな被害をもたらしてきた津波被害、その教訓は少しずつ風化していくように思えてきました。しかし、津波=高台避難が鉄則だと言うことを肝に銘じた日にとなりました。
関連記事


最新記事


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。